フィルターなんてぶっ壊せ。


はいきたどん、とみやしゅんたです。


世間はシルバーウィーク真っ只中ですね。

僕自身、会社も休みだという事を忘れており、すっかり暇です。



関西の学生で東京に友達の少ない僕にとってみたら

休みなんていらないので、働かせてくれって感じです。

意味もなく麻布十番に行って

服を着せたわんこ連れのマダムたちはいい感じのパン屋さんに

どれくらい入っていくのか数えていました。そんな休日です。



さて、サマーインターンもひとまず終わりを迎え

夏の”Facebook大成長更新祭り”も

収まりつつありますね。

そのサマーインターンの選考で、同学年の多くの学生に会うんですが、まさに十人十色のようにいろんな学生がいました。これからも一緒に飯行くような学生や前から知っていたけど選考を機に仲良くなった学生など、学生のコミュニティがけっこう拡がりましたね。いわば第二の新歓みたいな感じですね。



多くの学生に会っていく中で思っていたことがありまして、

それは...










無意識のフィルターをかけて人を見ている


ということです。













つまり、無意識に偏見をもちながら、その人を見ているということ。

選考前の何気ない話でよくこんな質問があります。








「なにしてんの?」










「サークルが〜」

「バイトが〜」

「学生団体が〜」

「部活が〜」

「○○○人規模のイベントを〜」

など、だいたいこんな感じです。

その時に無意識に人は優劣をつけたがります。



「自分の方がいろんな経験をしている」

「自分の方が頑張った」などなど



そうしてその人は無意識に「劣」のフィルターをかけて、人をみてしまいその瞬間から新しい発見や気づきがなくなります。



私生活でも同じことです。

(この人は子供っぽい。)(この人はおもしろくない。)(この人はださい。)など

その印象で「劣」のフィルターをかけて、しばらくはそのフィルターのイメージをそのまま人に代用します。









そうじゃない。そうじゃない。

僕は...
















優劣をつけるより、

その人に感動するか、しないかの判断をしろ












と思います。



人は必ず、どこかの部分で、自分より優れている部分があります。

今見えているのは、ほんの一部分であって、その一部分をみて

人は全てを見ていると錯覚して、無意識にフィルターをかけるのです。


そうじゃない。

その人には必ず自分にはないものを持っていて

それを見て、感動するか、しないかで判断をしろ

と僕は思います。



ここであえて「区別」と言わず「判断」と言ったかというと

「区別」は違うものとして扱う意であり、

「判断」は見定める意味を持っています。



つまり、全く別々のものを扱うのではなくはっきりと見ることをしてください。あえて見たり、確かめたりするだけで、分けることはしないでください。分けたその瞬間から「感動しない」に振り分けられた人からは何も得る姿勢がなくなり、「劣」と同じフィルターになります。



要は、(この人はもういいや)っていうことはせずに(もしかしたら...新しい発見があるかもしれない)というスタンスでいるべきだということです。



そしてもう一つ僕が思うのは















過去の経験、肩書き、年齢とか

全部とっぱらってみて
「人間」として好きかどうかで判断しろ













ということです。

正直、過去の経験や肩書きなんてどうでもいいんです。

というよりは


これから何をしていこうとするのか?

今、なにに取り組んでいるのか?

未来の何を見て、今を生きているのか?


年齢とかも本当にどうでもいい。

1つ上、2コ下だから、社会人だから、学生だから、先輩だから、後輩だから...



そんなことより、一回全部抜きにして

「人」として好きかどうかの

フィルターをかけてください。



そこで「人」として好きじゃないのであれば

合わなかったのでしょう。それは仕方がないことです。



でも、偏ったフィルターをかけて人を決めつけるのではなく

誰もが自分より優れているものを持っていることを意識して

「感動するかしないか」で判断し、

「感動しない」にしても、過去の経験、肩書き、年齢とかを全部とっぱらって

「人」として好きかどうか

でその人のことを見てください。


僕はそれができる大人になりたいです。




















さあ、フィルターなんてぶっ壊せ。

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